ゆっくり生活のすすめ

リズムやテンポって大切ですね。これらが狂うとすべてが上手くいかなくなってしまう、そんな感じがします。

人には理想的なリズムがあります。そのリズムの内に生活していると比較的平穏で、落ち着いて日々を送ることができるんですが、私たちのまわりにはそのリズムを崩すものがたくさんあるんです。その代表的なものがふるまいの速さ、がさつさです。便利で手っ取り早い生活は、私たちを速く走らせてしまうのです。

リズムやテンポには、歩く、話す、まばたきや手足の動きなど様々なものがあり、これらが速いと心は雑になりやすいのです。逆にゆっくりすぎるとリズムに乗れずダラダラとしてしまいますが、速くさせるものの方が多い感じがします。

見るからに忙しそうな人を見かけることがありますが、こうした身のこなしなどの所作は心を顕著に表しています。速くがさつな所作が自分をますます忙しくしてしまっているともいえます。

駅や街中で歩いていて、他の人の歩きが遅いと思ったことはありませんか。まわりの人の話し方や食べ方などが、ゆっくりしていると見えたことはないですか。こういった心当たりのある方は、まわりの人よりも速く、心が雑になりやすい状態だといえます。

できるところから、ゆっくり、なめらかな、しっとりとした所作に切り替えてみましょう。例えば、歩く、食べる、話す、まばたきなどです。これらの速さが心をみだす原因です。そして何よりも効果的なのが、呼吸。呼吸がゆっくりテンポなら、その他の所作は速くはなりません。

ちょっとした意識付けで、その独特のスピード感から解放されるはずです。まわりの見え方やまわりからの見られ方がずいぶんと変わるはずです。
ひとつひとつを丁寧にする「ゆっくり生活」を心がけてみましょう。

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「ヨーガ」か「ヨガ」か

「ヨーガ」と「ヨガ」、世間ではどちらかというと後者のほうが通りが良いみたいで、「ヨーガ」というと「洋画?」、「ヨガ?」などとといわれることが多々あります。

このあたりを整理しておこうと思います。
もっとも古く日本に伝わったヨーガは仏教の行法としてのもので、「瑜伽」と音写され、日本での仏教の伝統としての発音は「ユガ」とよみます。
では、中国語ではどうでしょうか? 仏教が伝わった頃の中国語(classical chinese)の音は残っていないので明確なことはいえませんが、現代中国語(北京語)としての「瑜伽」は発音記号で記すと、”yújiā”(ユジャー)か “yúgā”(ユガー)です。英語の場合の”yoga”の発音記号は”jóuga”または”jéuga”と記し、発音は「ヨーガ」に近いものです。
ヒンディー語の場合は、語尾の母音は発音しないために、「ヨーグ」と聞こえます。そして、古典サンスクリットでは、 “o”は長母音なので、「ヨーガ」となります。
つまり、「ヨガ」という音は、言語学的にはなく、日本での一種の俗語形が定型化とたものと言えます。

先日のNHK「公開すこやか長寿」、放送ではカットされていましたが、収録の場では「ヨーガとヨガはどう違うんですか?」という質問が入っていました。その時私は、以上のことをふまえた上で、「正しくはヨーガといいますが同じものです。」と答えさせて頂きました。
ことばは生きていますから、いろいろ変化があるものですから、当然ですね。

※これは、Facebookのノート(2011年9月1日)に掲載したものです。FBをされていない方のために、少し修正して再掲しました。
※「瑜伽」の題字は、真言宗御室派の大僧正・周藤苔仙上人によるものです。

金環日蝕

金環日蝕、見られた方も多いんではないでしょうか。そういう私もしっかりと見てました。
見たというより、滅多にないことなので、ちゃんとした写真を撮りたかったのです。
必死にカメラをいじっていたので、歓声を上げたりはなかったんですが、撮れた写真を見て感動している自分がいることに気がつきました。

感動、大切ですよね。感動、感謝、祈りなどは、私たち人間ができる素晴らしい情操なのです。色々なものに深く感動し続けられる自分でいたいものです。

感動にも「質」があります。深く上質な感動のもととなるものは、大自然の偉大な力が働いた時にこそ起こるものだと、今回の金環日蝕を見て感じました。テレビを見ても、通勤途中の多くの方々、学校に早くから集まって観察会をしていた学童たちが空を見上げ、「オーッ!」とあげる歓声に、大自然の偉大な力はかくも人を幸せにするものなのか、とそのことにまた感動していました。

あまり善いニュースが少ない昨今、見ず知らずの人たちが一緒に感嘆する様は、人が素直な気持ちで喜びや感激を共有できたひとときのように見受けられました。撮影している私の周りにも、普段滅多に話さないご近所さんとの輪ができていて、あたたかい気持ちになれました。

ヨーガは大自然の偉大な力、「いのち」に触れる実践です。ヨーガをとおして、質の高い感動、感謝、祈りを感じ続けられることのありがたさを大切にしたいと再確認させてくれた金環日蝕でした。

心柱

京都生まれの私は、幼い頃からお寺の境内が通学路であったり、遊び場であって、いつも三重塔や五重塔を目にして育ってきました。だからかも知れませんが、仏塔が格好良く見え、それを見ると妙にこころが落ち着いたりするのです。

さて、木造の仏塔である三重塔や五重塔。最も古いものは法隆寺の五重塔で、現在の建物は710年ごろのものだそうです。実に1300年以上、安全に立ち続けているのです。関東大震災の時も阪神大震災の時も、ほとんど損傷はなかったそうです。なにしろ、世界最古の木造建築ですから、すごいものです。

全国には歴史的に500箇所以上の仏塔があったそうですが、そのうち、地震で倒壊したのはほとんどなく、雷火や戦火による焼失がほとんどです。その秘密は、心柱にあるのだそうです。
現在の建築基準法では、必ず、下階から上階まで貫く通し柱が必要なのですが、五重塔には、心柱はあっても通し柱はありません。そのうえ、通し柱は大地の部分の他、建物ものとつながっているのは最上階の相輪の部分だけで、基本的に建物を支えるためのものではないのです。にもかかわらず、塔の天地を貫いていることによって、制振効果があるというのです。

仏塔は各層が独立して作られたものが重ね合わされてできているので、外力がかっても一度に五重すべてにかからず、分散して、スネークダンスのようにうまく揺れを吸収するのだそうです。その揺れのダンパー効果となるのが心柱なのです。
この日本で作り上げられた特別な工法は、いまや、東京スカイツリーにも応用されています。なんと、スカイツリーには直径8メートルの心柱が収まっているのです。

こうした心柱は、私たちのからだでは背骨に該当しています。背骨でいうと、骨盤部分と頸椎うなじ部分で天地を縛るように支えています。骨盤はさらに、大地とつながる足によって、大地-足-骨盤-腰椎-胸椎-頸椎となっていて、そのしなりによってバランスを取っているといえます。

ところで、雄弘ヨーガでは、うなじの実践を特に重要視しています。うなじを引き上げる実践によって、全身が吊り上げるようになり、心柱である背骨にハリを持たせることができるからです。うなじを引き上げれば、プラーナ、アパーナの気がの運行がスムースに行えるだけでなく、首が前に突き出たような猫背姿勢から理想的なS字に戻すことができます。スイカほどの重さのある頭部が背骨上に位置することで、からだの負担を少なくするだけでなく、芯を定めることができます。

うなじの引き上げは、からだのバランスだけでなく、こころの中心軸を築き上げる役割も担っているので、からだが心柱の定まった仏塔に近づくことによって、こころが鎮まって落ち着きをとりもどし、本当の自分を見出すことに一歩近づけるようになるのです。

守られてこその健康~息災~

雄弘ヨーガの仲間には、最近ヨーガを始められた方もおられますが、10年、20年の方から30年、40年続けられている方もおられます。40年経つということは、30才から始められても既に70才。本当にすばらしいことです。中には、80才を越えてから始められる方もおられます。

こうして、ヨーガを続けていると、「あ~っ、ヨーガを続けていて良かった」と感じることが何度かあるものです。続けているからこその実感ですね。これが「守られている」ということなのです。
このことを「息災」といいます。仏教用語ですが、大いなる力に庇護されて健康でいられることを意味します。

かつて先代がこのままだと「1億総半健康人」になってしまうと嘆いていました。
病気ではないものの、健康という実感が持てない、イキイキ感がない、という方があまりにも多いというのです。

世界保健機構(WHO)によると健康とは、
 ”Health is a state of compleate physical, mental and social well-being,  
 not merely absence of disease or infirmity.”

「健康とは、身体的、精神的、社会的な完全な善い在り方の状態であって、単に疾病や虚弱がないことではない。」

つまり、健康と不健康の境目は、疾病の有無だけでなく、健康観の有無が重要なポイントになっているともいえます。そこには、価値観や信仰心なども含まれるでしょうし、立ち居振る舞いにもそれがにじみ出ているような社会的にも健全であることも必要ですね。
そして、これらのすべてが心の充実と深い関わりがあります。
「健」はからだの健やかさを、「康」はこころのゆたかさを表していますから、当然といえば当然ですね。

ヨーガが本当の意味で人々の根底に位置付けば、多くの方が「あ~っ、ヨーガを続けていて良かった」と思い、「守られている」と感じることが増えるでしょうし、健康観に満ちた一億総健康人の社会ができあがると思っています。

自分が勝手に健康なのではなく、大いなる力に守られているからこその健康。この謙虚さが健康の秘訣なのかも知れません。

無罣礙~身体と頭を空っぽに [3] 最終回

2012年2月29日以来掲載してきました、無罣礙~身体と頭を空っぽに~の第3弾(最終回)をお送りします。

1991年5月4日の先代雄弘師の講話記録を文字に起こしたものの一部です。
※原文のままでは分かりにくい部分のみ、若干修正しまた。

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だから、頭を空っぽにしてね「無罣礙」ですね、えーっ、そうして、からだの障り、からだの障りっちゅうのは、まあいろんなからだに障りがあってね、人間のからだというのはね、もう、だんだんと汚れていってね、狂ってきて、いろんな病気が出やすくなってきてますから、そういう障りをね、やっぱり毎日取っていくんですわな。障りを取っていく。で、こんなもん、休日に取ろうと思っても取れないんですよ、そんな安易な考え方いかんですわな。毎日、こころとからだの障りを取る。

アインシュタインさんはね、頭の障りを取れって、そしたら発見できるってね。私たちはそんなんでは満足しない。もちろん、頭の中にこびりついておる、からだもね。まあ、これ、食べ物でも一緒ですわな。もう、うーーんと、お腹空かしておくとね、ものすごく栄養になるわな。で、からだが全身全霊でそれに働きます。分解して栄養にして、、、ね。

ところがもーっ、いつも、飽食なっておってね、もう、からだが鈍くなっておりますと、もうどれが本当の栄養でどれが無駄な栄養かわからへん。もう適当に選択しとるわけや。いつも適当には入ってますからね。これダメなんです。もっている力を全部発揮することが出来ないね。むかし、断食すると、そういう力が発揮できるとかいいますけど、断食しますとね、また、いろんな障りが出てくるんですよ。

えーっ、ああいうことっていうのはね、えーっ、これも一緒、あのーっ、時々やってもだめなんですわな。毎日、その障りを除いとかんと。そうするとね、「無罣礙」という状況がでてくるんです。その「無罣礙」という状況がだんだん清まってくると、この観音さんとかね阿弥陀さんがね、出てくるんです。わかりますか?

つまり、その人のなかから、そういう力が出てくるんですね。それを、智慧というたんです。そうするとね、あのー、非常に人間というのは楽になるんです。えーっ、まっ、これにすがっておれば大丈夫だという、信念が出てくるんですな。そしたらもう、あんまりしょうもないことやらなくなるんです。無駄なことやらなくなる。

無駄なことやらないから、ものすごく能率が良くなる。仕事がどんどんできる、ね。そして、えーっ、充実していくわけですな、非常に短時間でもって、物事が早くできるね。だから、ものを考えたりまとめたりするとっちゅうのはね、ヨーガをやっとったら、ものすごく早い。サッサッサッサーって纏まってしまうね。それをまあ、それを具体的に書いたりするのは時間かかりますけどね、こういうことサッと頭の中で纏まったりするのはね、えーっ、この「無罣礙」になっているからすぐできる。

からだもそうですね。サッと全身が調和とれておってね、からだに障りがなくなっているね。それで、からだとこころも障りがなくなって、それはもう一つになってね、障りないと一つになるとね、そこにひとつの、観音力とかね、大きなその人を守護する力が出てきます。わかりますか? これがね、ヨーガの考え方なんですわ。だからひとつ、えーまあ、休日も結構やけど、毎日そういう休日を取るのが一番よろしいですね。毎日。

えーっ、そうすると我々の生命も人生もですね、「無罣礙」でなくっやいけない。「罣礙」ばっかりなんです。もう日頃のこと障りばっかりや。こころに引っかかることばっかりや、からだに引っかかることばっかりでね、それがいっつも私たちを引っ張って悩まされておるんだから、それを「無罣礙」にしていく。これが我々の「ヨーガはからだで唱える真言である」という考え方なんです。分かりましたか?

だからそれをひとつ毎日、そういう気持ちで実践されますとね、いのちが生き生きとね、えーっ、いつもこう水生けされている花のようにね、生き生きして、素晴らしい、みずみずしいようになって、こういう気持ちがからだとこころにありますとね、気持ちが明るくなって、人生が前向きにいられるという、こういう素晴らしい効果があるんです。 -終-

                       

ヨーガは誰のもの?

これは、2001年12月24-25日にインド・ムンバイで国際交流を行ったヨーガ団体、Shri Ambika Yoga Kutir のFacebookページへの昨日の投稿を意訳したものです。

ヨーガとは何なんでしょうか。
ヨーガとはどういう人がするものなのでしょうか。
ヨーガは、特別な人たちのものではなく、どんな人にでもできるものなのです。

赤ちゃんの頃には、だれもがシンプルなヨーガのような姿勢をとっているのを知っていますか。
ヨーガは単なる曲芸ではありません。それはからだ、こころ、そして、たましいを結びつける統合的(ホリスティック)なアプローチなのです。
ヨーガとアーサナなどの実践は、あなたの内面に調和のとれたバランスをもたらすのにたいへん有益です。
幸せとなる基準は、決してからだだけの健康だけではなく、健全なこころとたましいなどによる、総合的なものです。
ヨーガは、これらのすべてに働きかけてくれるのです。

煩悩即菩提

煩悩即菩提、先代が好んでよく使ったことばです。
この相反するふたつが「即」の関係であるということ。

今回のインドで感じたことのひとつなんですが、時期的なこともあってたいへん暑い時期でした。
お昼も過ぎると、3時をを回るまでは全員休業期、ほとんど外を出歩かなくなります。
それほど太陽の力が強いんです。

インドは暑い国です。いえ、気温もそうなんですけど、それと同等以上に人々の気持ちが熱いんです。それも相当に…
ヴァラナシの友人、インド人ヨーギーなんですが、再会した時の歓迎ぶりは、今までに経験したことのない、特別なエネルギーを感じました。10年ぶりに再会した、ブッダガヤのホテルの支配人の場合も同様でした。
世界中からブッダガヤ大菩提寺に集まる信者の方たち、この信仰心にも相当に熱いものを感じます。
逆にいうとそれだけ、煩悩も強いともいえるのですが、それがとても人間的に思えたのです。

たとえ煩悩が強くても、それを乗り越えようとするエネルギーも相当に強い。
まさに、煩悩即菩提なんですね。
清だけでは成り立たない、濁があるから清となれる、清へのエネルギーとなる、そういう、相反する2極性が即の関係でいる。

これは、ヨーガには濁である煩悩や何かを乗り越えようとする、成し遂げさせる力が半端なく強いということを意味します。

広範囲の周りの人の幸せを願う大願、家族規模の幸せを願う中願、最後に自分自身の願いを託した小願、これらをはっきりと区分して誓願してヨーガを実践すれば、必ず成就する!
逆にいうと、ヨーガには、熱く燃えるような願いが必要不可欠といえるのです。

※色紙は歴史学の大家、京都大学名誉教授の上田正昭先 生が先代にくだされたものです。上田先生は先代の高校時代の恩師。
今は、私が出講する京都アスニーの理事長もされています。

無罣礙~身体と頭を空っぽに [ 2 ]

2012年2月29日にアップした、無罣礙~身体と頭を空っぽに~の第2弾をお送りします。
時期的にはほぼ今と同じ時期、重ねて読んでいただければと思います。

1991年5月4日の先代雄弘師の講話記録を文字に起こしたものの一部です。
※原文のままでは分かりにくい部分がありましたので、
 その箇所のみ若干修正しまた。その他は、記録テープのままにしておきます。

。。 _____________ 。。。 _____________ 。。

ちょうどいま、5月の終わり、、、4月の終わりずっと、12月まであるそうなんですけどね、
NHKでアインシュタインのね、「よみの国?」とかいうんですか、なんかそんなんでやってましたね。
アインシュタイン、あれ、面白いですね、見てください。

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インドも日本も同じやん!

インド、久しぶりの訪問で、当地の人びとのエネルギッシュなさまをよくよく感じてきました。

「やはりインドの人は違うな、インドはすごいな」と思いつつも、
冷静にインド様式を見て帰ってきました。
帰国後まもなく、増上寺の御忌法要に参加させていただいて、
「インドも日本も同じやん!」とあらためて思ったんです。

確かに、関わる人たちの顔立ちも肌の色もことば、
作法や様式、風土など、何もかもが違うんですが、
何かしら、人の心の底にあるものに違いはないと確信できました。
何もかも違うのに、おなじ波動を感じたのです。

ブッダガヤ大菩提寺に集まる人びとと御忌法要に集う人たち。
歴史的意味などは比べようもありませんが、
「ほとけの御法」に向けられるエネルギーに違はいなく、

人びとの祈りの力に感服してしまいました。

日本では、その象徴の桜が花盛り。

信心に優るものはないと実感しつつ、
インドが今まで以上に身近に感じられるようになりました。