星空を眺める

夏も終わりが近づき、低くなりつつある陽の光が、まだ盛りの名残ある青葉を照らす頃。眼に映る光が柔らかくなってくるのが分かります。

昨日今日はめっきり秋らしくなり、空も澄んで夜空の星も秋冬の星や星座が見えるようになりました。午前0時ころともなると、プレアデス星団が東から上がりはじめます。

澄んだ星空を眺めると、心が洗われるように感じます。無限に広がる大宇宙を眺めて、自分の小ささを感じ、より大きなもの、人智を越えた大きな力の存在を確信するのです。古来より、人はそうして空を、星を眺めてきました。

最近は「想定外」、変なことばが流行っています。要するに、小さな頭で捉えて是であると勝手に考えていたものが、実はそうではなかったということです。想定外を実感するときは、自分の思慮の足りなさを覚るのに絶好の勉強の機会なのに、想定外だから自分の責任ではない、という風潮が感じられます。

現実社会に生きていると、どうしても思考が現実的にならざるをえず、眉間が緊張し、頭の中の空間が狭くなってしまいがちです。その傾向が続くと自分を見失いがちにもなったりしてしまいます。

でも、ヨーガをすると小さな頭が大きく無限に広がってゆくような体験をします。狭くなった頭が、満天に星空輝く大宇宙のように、大きく広がっていくように感じます。

人間には静寂と沈黙と空間が必要だといった方がいます。人間性を豊かに保ち続けるには、静寂と沈黙と空間が必要不可欠だというのです。

星空を眺めてみましょう。少しずつ眼が暗さに馴染んで、見える星の数もどんどん増えてくるのが分かります。静かに空を眺めていると、少しずつ狭い意識が拡張するのを実感できます。そして、静寂に包まれるのが分かります。さらには、星が見えるようになると同時に、自分も見えるようになってきます。

オリオン座や木星が見えるのが楽しみな季節になってきました。

梵鐘

昨日、表参道を歩いていると、とどこからともなく「ぼ~~ん~」と。
ん?と思っていると、またまた、「ぼ~~ん~」。これは、まぎれもなく梵鐘の響き!。
でも、こんな都会で?と思い、尋ねてみると近くにお寺があるという。゜

調べてみると、それは青山善光寺こと、信州善光寺別院『南命山 善光寺』からのものでした。
どうやら、18時の鐘の音のようでした。

京都で生まれた私は、鐘の音を聞いて育ちましたので、このような都会で聞けるとついつい嬉しくなります。
大都会の中で、鐘を撞き続けるお寺がとてもありがたく感じられたのです。
             →写真は表参道交差点

鐘の音を聞くと、心が底の方から鎮まるのを感じます。でも、都会の喧騒の中で、どれほどの人の耳に届いたかは分かりません。

人間性を保つのに大切なものが三つあるそうです。
それは静寂と沈黙と空間。

喧騒に包まれて現実社会に生きているので、ある程度思考が現実的にならざるをえないものです。
でも、あまりに現実的になりすぎると、自分を見失いがちになる、、、

梵鐘には、静寂と沈黙と空間を創り出す、魂を揺り動かすような不思議な力があるものだと再認識したのでした。

◆青山善光寺の紹介は下記のサイトがわかりやすいです。
http://www.prartweb.com/blog/2011/12/aoyama-zenkoji.php

夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、、、

厳しい酷暑が全国で続いていますが、すでに立秋を迎え、暦の上では秋となりました。

今日の関東地方は、しばらくぶりにすごしやすく、昼間は暑さが残るものの最高気温も28℃、夕方は本当に涼しくなりました。

ふと空を眺めると、夕日に映える西の空が、あまりにきれいだったので、シャッターを切りました。

正岡子規が、夏から秋への季節の移り変わりを「夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く」と表現したように、岩のように重い夏の空とはひと味違った、柔らかく美しい空が広がっていました。

まだまだ残暑が続くでしょうが、確実に秋に近づいている安堵感を感じたのも、西方浄土におわす阿弥陀仏の導きによるものでしょうか。

    南無阿弥陀仏
    ॐ अमिथाभाय नमः
    ॐ सूर्याय नमः

満月

夕べは満月でした。
月は太陽とともにつねに私たちとともにあり、人の歴史すべてを眺めるように見下ろしてきました。

太陽と月は、人間が生まれる以前より地球に働きかけてリズムを生み出し、潮の満ち引きや歴、季節、昼夜など、私たちの根幹となる多くのものを生み出してきました。

この夏も毎日が酷暑、厳しい暑さが続く中で、ここ数日間の月は、秋の月のように澄んで、青白く、涼しさを与えてくれました。満月というと中秋の名月を思いますが、真夏の満月も素晴らしいものです。

日蝕、月蝕は太陽や月がむしばまれる不吉なものととらえれたように、やはり満月は欠けのある月とは違う、特別なものに思えました。

世界中がこの満月を眺めている。

世界中で日々多くの出来事が起こっていますが、この満月の力で世界がまるくまとまるよう、祈念しました。

太陽の力は偉大です

我が屋根に太陽光発電パネルをつけて1ヶ月が経ちました。日々、太陽の力の偉大さを実感しています。

昨年の夏までは、気温が40℃近くになっても冷房は入れず、とにかく汗をかくことで頑張っていました。最も自然なかたちでいいのですが、さすがに厳しく、思考も低下しがちになってしまいます。

昨今酷暑が続き、大地も人もカラカラ、みなさんも水分を急と室温には気を配ってくださいね。

太陽光発電パネルのお陰で、自然に影響を与える原子力発電、火力発電に依存せずに、必要に応じてエアコンをいれることができるようになりました。昼間であれば、エアコンをいれても電気が余ります。

太陽の力は偉大です。かつてインドでは太陽神スーリヤを崇拝しました。これは、人の心の隅々まで照らし、差別無くすべての人に恩恵をもたらしたからです。ヨーガにも、太陽礼拝のアーサナとして残っています。YouTube→http://www.youtube.com/watch?v=OnqICv3CfJc&feature=plcp

太陽の力が強すぎて大地や水の力とのバランスが崩れると干ばつとなり、農作物は育たず飢饉となります。こういうことから、いにしえの人々は恩恵を受けつつも畏怖の念を忘れませんでした。自然との乖離が激しくなると、自然からの恩恵、自然への畏怖がどうしても希薄になります。            7月上旬の稲→

今、エネルギーという視点からも、自然の偉大さを実感できるようになりました。

扇(扇子)を見ているとこころが広くなる気がします。なぜか不思議な力が扇にはあるようです。私は京扇子(京扇堂)の白扇九寸を愛用していますが、洗練された美しさからか、なにかしら、ゆとりを感じるのです。

扇は古くから世界にあるといいますが、私たちが見る扇子、薄い板を重ね、端を要でとめて紙を折りたたんだような洗練された形になったのは、日本独自なものだそうです。日本人の感性ってすごいと思いました。

さて、こころが広くなる気がするのは、この開き方に秘密があるようです。扇の開く角度は、ほとんどのものが約120度で、この開きに末広がりをイメージするらしいです。そして、約120度というのは円のちょうど3分の1。そこに扇子の黄金比率のようなものがあるらしいです。確かに、90度ほどだと少し狭い感じがしますし、120度を超えると落ち着きがありません。絶妙なんですね。

私たちの眼の視野は、大体200度位あるそうですが、実用域は120度位なのかも知れません。以前、「遠望視」の箇所でも類似のことを述べました。視野狭窄に陥らぬよう、扇子や遠望視によって眉間と額を緩めて、こころと眼、両方の視野を広く、ここも豊かになりたいものです。

京扇堂の扇子はこちらへ

「カパーラバーティ浄化呼吸法」をYouTubeにアップしました

カパーラバーティ浄化呼吸法です。前半はカパーラバーティで途中からバストリカに切り替わっています。音の仕方と胸郭の動きに違いがあるので聞き比べて下さい。 カパーラバーティは胸郭が開き肺活量を増やすことがができるので、心肺機能が活性されます。また、腹部の断続的な刺激によって、便秘や消化器機能の改善が見込めます。 集中力が高まり、終了後は導かれるように瞑想状態へと誘われ、心が浄化されるのを感じることができるでしょう。 通常は60回を1ラウンドとして、2-3ラウンド続けられるまで練習して下さい。熟達者は1000回単位で行うこともありますが、必ず信頼できる指導者の下で練習されるようにして下さい。
YouTube→「カパーラバーティ浄化呼吸法」

根と葉と

今春から、インド産の菩提樹(クワ科イチジク属)を育ててます。これは、お寺の境内にある中国産のもの(シナノキ科シナノキ属)とは別種で、ブッダが涅槃に至ったあの菩提樹です。
これは、熱帯性で、非常に生命力が強く、枝を幹から切って水に浸けるだけで、茎から発根してそのまま子株ができるのです。

熱帯性の樹木には、菩提樹のように発根力のあるものや、ガジュマルやベンジャミンなどのように枝から気根が垂れ下がってそのまま大地に根ざすものもあります。※インドボダイジュ→

大地に伸びようとする根の力は、そのまま上に伸びようとする枝葉の力となり、葉に張り巡らされた葉脈はまた、根を生かす。見ていてそういう生命力を感じるんですが、そこに何ともヨーガ的示唆を感じるのです。

ヨーガでは末端ほど大切にします。一般的には、中心部が大切と考えるかも知れませんが、ヨーガ的にはまったく逆なんですね。
足がしっかりと大地を掴み、地に足が着けばこころもからだも安定して上へと伸びていくことができます。 ※ガジュマル→

また、葉が枯れるときは、その縁や先から元気がなくなって茶色く変色していきます。逆に末端が元気であれば、中心は元気だということです。気のエネルギーがどこまで届いているかということが大切なのです。先端に気が届いていれば、その途中には当然気が巡ったことになるからです。

それは、私たちの場合も同じで、さしずめ、幹は私たちの背骨ですね。幹が育つには大地の根と天に伸びた葉からエネルギーを供給されることが大切なように、私たちの中心軸・背骨がしっかりとするには、やはり手足など末端の充実が大切なんです。

ちょっとひと息~ハス沼~

最大で3000年前のものとされる古代蓮。造成工事の途中で偶然、地中から目覚めて発芽したものです。自宅の近くにはその古代蓮をみんなで守って育てているところがあり、今日、はじめて行ってきました。

まだ開花したものは少なかったのですが、凜と立つつぼみとまわりの環境を堪能してきました。「蓮は泥中に生きる」といわれ、世の中の汚れに染まらないで清く生きるものの象徴として、古来より大切にされてきました。

 

 

 

 

訪れた沼は数日来の雨の後でかなりぬかるんでいました。足場も悪く決して開けた場所でもない蓮沼のまわりには、広大な沼に葦が覆い茂っていて、遠くからはウグイスの鳴き声も聞こえてきました。

かえるや亀もいましたが、小さなトンボに出逢えたのはとても嬉しかったです。孵化したばかりなのでしょうか、夏にはオニヤンマかなにかに育っているような感じがしました。

近くにこんなすばらしいところがあるなんて、、、。

みなさんのまわりにも、今まで気づかなかった素晴らしい何かがあるはずです。

足るを知る(知足)

日本には古来より、「足るを知る」という考え方があります。「もったいない」等ともつながるこの考え方は、古代インドからヨーガ、仏教、禅を通してわが国に持ち込まれたものです。

ヨーガの思想でも、知足は、ただ生命を保護するものだけを生活の条件とするもので、手元に獲得した者より余分に獲得しようとしないことと教えています。↘下記註へ

個々にはそのように捉え、実践されている方も多いのですが、かつての無限な右上がりの幻想、妄想から離れられずにいる方も多々見受けられるように思います。そして、社会全体は未だにその幻想にとらわれているように思えてなりません。

欲求不満はそうした、無限に欲しがる渇愛が原因となっていて、人の心を荒らしてゆくのです。お釈迦様もこれを厳しい戒めとして、人が救われるためにはその根源から覆さないといけないと考えたのです。

ムラムラと湧き上がる欲求の炎が吹き消された状態をニルヴァーナ(炎vânaをnirで否定した形)、すなわち涅槃といいます。とても難しいことのように思えますが、究極的な般涅槃(parinirvâna)までの段階にいくつもの現実的な段階の涅槃があります。

私たちのレベルで至れる涅槃があるということです。

日々に起こる心の炎を鎮め、過度な欲求を抑え込むことが、平穏に安穏と生きるために必要なことです。どうしても、欲求、渇愛が消えにくくて困難なときは、目を閉じてゆっくりと息を出してみることです。
心の粘着性も弱まり、今の「ありがたさ」に気づくことができるでしょう。

日本人が長年培った足るを知るの思想。
そして、渇愛の弱められた豊かな人間性をもう一度、味わってみましょう。

渡辺謙さん、ダボス会議スピーチ全文はこちらへ

註) 龍安寺のつくばい:口を囲むように上→右→下→左と読むことで、「吾、唯足を知るのみ」と読めるようにできています。