雄弘ヨーガの音楽性

雄弘ヨーガが音楽的であることは、ずいぶん前から気づいてました。先代からも直接聞いてはいたんですが、自分の口から出てきたときは、ほんとうに実感したんです。

数年前のこと、ある雑誌の取材を受けていたときに、スラスラ~っと出てきたんです。佐保田先生はインド哲学の専門家であるだけあって、ものすごく理知的、哲学的、そして宗教的にもヨーガの思想をよく研究されました。「雄弘」の号をいただいた先代は、ヨーガに触れる以前に音楽家だったので、ごく自然に音楽的な感性でヨーガを捉えていたんだと思います。
雄弘ヨーガの呼吸の特徴である「四つの呼吸」は、こうした音楽的な感性の賜物なのです。

バイオリニストのユーディ・メニューインのことは、著書の中でたびたび触れていて、自身が子どもの頃から接していた音楽と青年期に始めたヨーガのつながりを深く感じていたんだと思います。

私も音楽に囲まれて育ちました。残念ながら、音楽的な技術の修得はできませんでしたが、こうした環境から、音楽的感性は培われたのだと感じています。

音楽性といっても、いわゆる”ミュージック(Music)”のことではありません。

音楽は、そもそも人間の歴史と同じくらい古いもので、古代の人びとが、「ことば」という概念手段を超越して神々に祈ったり、神的なものに触れようとして向かい合った時の精神的エネルギーが音声化された、唸り声やリズム等、一種、波動のようなものが、その原点です。
また、人と人とがつながろうとするときのこころの波動から湧き上がったものともいえます。その時代の音楽は、人間のすべての情動を表現する手段のようなものだったんですね。

お経を誦んだり真言(マントラ)を唱える際、節回しのようなものがありますが、それは、ここに音楽的なものが含まれているからです。そういう点で、ミュージック(Music)も真言(マントラ)も、同じ先祖を持った親戚といえます。

私たちは、ヨーガによって、全身でことばを越えた波動を感じ、それによって、こころと身体をバランス良く調え、こころの奥底をかいま見、より深い本当の自分に出逢おうとします。
そういう点で、雄弘ヨーガは、呼吸や全身の緊張と弛緩のリズムを中心に添えた、まさに音楽そのものなのです。

読誦(どくじゅ)~教典を誦む

日本ヨーガ光麗会直属の雄弘ヨーガ研修会では、ヨーガの前に教典を誦んでいます。「ヨガにお経?」と思われるもしれませんが、「ヨーガだからこそお経」なんです。別になんか特定の信仰を期待しているわけでもなんでもないんですが、長い息で大きな声を出すと、からだ中が響き渡り、なんとも心地良いものです。それに、お経の内容がわかってくると、意味深く、面白くなってきます。

誦んでいるのは、雄弘ヨーガの思想をまとめた『瑜伽真言法』、「ヨーガ・スートラ」サンスクリット語版の抜粋『瑜伽経三十頌』、そして「般若心経」のサンスクリット版の『梵語読誦般若心経』です。「ヨーガ・スートラ」のフルバージョン版『瑜伽経』を誦むこともあります。

読誦には煩悩を弱める力があるというからたいへんなものです。また、読誦して祈念すれば大願成就も間違いなし。気持ちを鎮める時にも、元気を出したい時にも、供養をしたい時にも、どんな時でも抜群の力を発揮します。

ヨーガに通ってお経が誦めるようになるなんて、格好いいと思いません?

ちなみに、ある会員の方が、ヨーガ前の読誦に触れられたブログがあるので、読んでみて下さい。なかなか、面白く書かれていて感心しました。⇒日本ヨーガ光麗会 大阪研修会

日本ヨーガ光麗会サイトの読誦関連はこちらへ⇒「サンスクリット語で唱和するヨーガ教典~ヨーガの前に声を出してみませんか~」

愛でる感性

もう2月下旬、春のように暖かい陽射しがさしています。今日は、空の色も、空気の色も、陽の色もすべてが春らしく感じられる日でした。

こういう時期になると、花の開花が待ち遠しくなります。
桜の季節になると、町行く人は、みんな上を見て歩くようになります。
空気も桜色になるそうです。
「うわーっ!きれい!」という声があちこちで聞こえてきそうです。
きれいと感じるのは、そこにいろいろな力が働いているからなんですね。
香り、肌で感じること、気温、空の明るさ、、、。

最近はあまり使われなくなりましたが、日本には伝統的な色が数多くあります。私たちが緑と表現する中にも、若草色や萌黄、翡翠色など、かなり繊細だったのがよく分かります。現代人はこうした感性を失ってしまったのかも知れません。「かわいい」「きれい」よりも奥行きのある響きの分かる、もっと、人間の本質に響くような感性に触れる、深みのある見方をつけたいものです。

ヨーガをやっていても、しっかりと呼吸をし、気のエネルギーを頂くと、「あーっ、気持ちよかった」感じるものですが、これも、そこには、いろいろな働きが加わってのものなんですね。ちょっとした奥行きを再認識すると、もっと情感ゆたかに、深みをもって感じられるはずです。きっと、ヨーガも深まることでしょう。

きれいや爽快さを感じるだけでなく、美しさ、素晴らしさの背景も含めてすべてを「愛でる」。

自分の内に宿る20億人のご先祖様

「螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」⇒吉田兼好

何でも新しいものが良いという風潮ですが、古いものにこそ、本当の美しさをそなえている、という考え方もあります。長い間使っているうちに自ずと熟成されてくるものがあり、熟成があるからこそ、本当の美しさがあるのだ、と兼好はいっているのです。それは、古いものの内には、すべての時を積み重ねていると感じたからでしょう。

また、人はその全人格に個を越えた歴史を刻んでいます。

私たちひとりひとりの内に、どれだけのご先祖様が宿っているかを数えてみた方がいるんです。大仏教学者であり宗教家であり、実践家でもある玉城康四郎先生(故人)です。以前、日本ヨーガ光麗会の講演で来ていただいたことがあります。

玉城先生によると、私ひとりの内に両親がいるので、まずふたりの先祖は確定しています。そして、その両親、そしてまたその両親と辿っていくんです。10代(約300年)遡れば、2046人、20代(約600年)で2,097,110人、30代(約900年)で2,147,483,646人となります。なんと20億人!

そして、実際はそれ以上の膨大な先祖の記憶が、私たちひとりひとりの記憶に宿っているんです。
興味深いと思いませんか。

でも、今の自分の我が強すぎるとそれが蓋になって、ご先祖様も見えなくなるし、ご先祖様の力も頂けないんですよね。ヨーガをとおして自分に宿る先祖様を供養し、身体の隅々、心の隅々を意識に上げて思い出す。
ご先祖様を思い出し、今、自分のあることに感謝したいですね。

植木鉢と兵糧攻めの根っこ

かつて、庭の鉢植えを手入れしていたときのこと。大きな植木鉢に移し替えようと抜き取ると、所狭しとグチャグチャとなった根がひしめき合っているのが視界に入ったんです。「こんな狭いところに入れられて、、、、」「大地と繋がりたいんだな」そのように思えたのです。その証に下の穴からは、大地を目指して根がたくさんあふれ出てきていました。

その瞬間、「植木鉢は、私たちの意識そのものではないか!」と私の心が叫んだのです。兵糧攻めのように小さな枠であがいている、、、。閉塞した社会経済環境の中を生きている我々は、植木鉢のなかで兵糧攻めにあっている根と重なって見えたんです。身体のクセもいわば同じで、小さな鎧をかぶったように肩をすくめている。

でも、根に力があれば、植木鉢も割ってしまうし、コンクリートの壁も倒してしまうような、大きな力があるんですね。ただから、こころとからだと意識の枠を打ち破るためには、根に力を与えるのが最も効果的なんです。

ヨーガは、根っこにそのための力を授けてくれます。生命力、人間力、人格力、、、、私たちが枠を越えるために必要な様々な力を授けてくれる、ありがたく、頼りがいのあるものなのです。

雄弘ヨーガの実践セミナー(大阪支部主催)の日程と会場が決定

雄弘ヨーガの実践セミナー(大阪支部主催)の日程と会場が決定しました。今回も霊峰高野山で行う予定です。3年目となる高野山、今回ならではの特徴を盛り込む予定です。どうぞお楽しみにしていてください。
日時:10月13日(土)-14日(日)  会場:高野山 宿坊 地蔵院

雄弘ヨーガの実践セミナー(京都支部主催)の日程と会場が決定

雄弘ヨーガの実践セミナー(京都支部主催)の日程と会場が決定しました。
風光明媚な嵐山で行う予定です。京都ならではの嗜好を凝らす予定です。どうぞお楽しみにしていてください。
日時:10月6日(土)  会場:嵐山、時雨殿
時雨殿ホームページ http://www.shigureden.or.jp/

遠望視

私が小学生の頃、視力が低下する子どもが多いということで、休み時間に遠望視を学校ぐるみで取り組んでました。校庭から吉田山(京都市内、大文字山の向にある)をぼーっと見る練習です。当時は何をしているのか、まったく意味がわかりませんでしたが、今思うと遠望視は視力よりもこころの鍛錬に効果的だったんだと思えるようになりました。何もしないこの時間は、こころの栄養補給の時間なのです。

私たちはどうしても遠い将来のことよりも、近い将来の、あるいは、今日明日の雑事にこころが向きやすい傾向があるんです。だから、目の前に大きな課題があるとそればっかり見てしまうんですね。近くを見るということは、遠くが見えないということ。手前のことばかり気にしていているから、視野が狭くなるんです。

とても不思議ですが、実際に眼で見える視野が狭くなると「こころの視野」も狭くなるんです。狭いところで右往左往するようにもがき苦しむようになりかねません。この時こそ、視野と視線をかえることで乗り越えることができます。

こういうときに遠望視が最適なんです。かっこよく表現すると瞑想ともいえるかも知れませんが、遠望視でいいんです。遠くを見るんです。とにかく遠くを。何かに焦点を合わせるとその他のものが見えなくなるので、何を見るでもなく「あ~っちの方」を眺めるように空を見てればいいんです。千里先の地平線やその向こうにあるオアシスを眺めるようにするんです。山がなければ、空でも星でもなんでも大丈夫。

近くを見すぎると、視野は20度未満。集中力があるといえばそうですが、これではあまりにも周りが見えない。こころを苦しめるテーマに集中する必要ありませんからね。遠望視をすると、視野は180度以上!見える世界が桁違いに広くなります。眉間のしわも緩んで、眼の緊張もおさまり、とても楽になります。5分~10分経つと、こころもひろ~くなって、自然と同化したのが分かるはずです。

なぜ日本性に気づいたのか

仏教やインドについて学ぼうとすると、一般の感覚にはない、一種独特の表現に出逢うことがあります。極楽浄土などは、如何にも荘厳な様で、蓮池が沢山あり、いろいろな色の花が咲いていて、光に充ち満ちて、鳥が鳴いていて、、、、香しくかおるさまなど、、、、。でもどのように詳細に説明されても、実感が湧かないことも多いですよね。

ヨーガの場合だと、アーサナや呼吸などの実践はものすごく実感するものが多いし、よく分かる。なのに、その思想、とくにハタ・ヨーガの独特な宇宙観はなかなか実感できない。論文「『ゴーラクシャ・シャタカ』試訳(1)」で翻訳したように、気道、脈管はまだしも、チャクラ説のその描写の仕方がまったく理解できず実感が湧かないこともあります。

実は、このような独特な描写の仕方こそもっともインド的なものであって、それらはみなインド的感性の賜物なのです。だから、私たち日本人が、見たことも、聞いたことも、体験したこともないことを簡単には分かるはずがないんです。その時代のその環境で、その文化に接して何世代も生活していたインドの人だけにしか理解できないこともあるんです。だから、私たちには、ある意味分からなくて当然なんです。こういう場合は、分からないまま保留にして、知っておくだけでいいんですよ。

かつて、仏教が中国に伝えられたときも、そもそも中国にないものはどうしようもなく、翻訳もできない。そして、もともとあった道教の考えを借りて翻訳されました。ヨーガも、元来インド産であるので、そもそも日本にはない概念があまりにも多く、それらに触れるとき、自然と、日本人の感覚に合うように修正して理解しているんです。
そして、インドで大昔から伝えられてきたことを、日本人として理解することを大前提にしてヨーガを学ぶ、その大切さに気がついたのです。

サッカー元日本代表の中田英寿さんは、試合で世界各地をまわり、様々な世界の文化に接してあらためて、自分は日本人なんだと強く実感したそうです。それがきっかけとなって、日本の伝統工芸や技を体験することで、日本を体感、実感しようとしているそうです。
その点で、雄弘ヨーガは、できるだけ純粋なインド産のヨーガを純日本的に解釈してできあがったものといえるのです。

呼吸の「間」を大切にしよう

呼吸法は、こころにもからだにもたいへん良い効果をもたらすので、実践されている方が多いと思います。でも、ちょっとしたポイントを意識するだけで、さらに質も高く効果的になります。

それは、「日本的、純和風のヨーガ?」でも書いた、「間」です。呼吸は大きなうねりのように、なめらかな波形を描いているのが理想的なのですが、そのためには、呼吸と呼吸との間に一定の「間」を意識することがとても大切なのです。

息を入れてから出し始めるまでの「間」、息を出し終わってから息を入れ始めるまでの「間」の長短が、呼吸の質を大きく変えてしまうのです。「間に合う」「間合い」「間違い」「間がずれる」などの表現のように、禅や伝統芸能の影響を受けた私たち日本人は、とても「間」を大切にしてきました。それが呼吸法にも当てはまるのです。

あるようで、掴みにくく、でも確実に存在する「間」。その「間」が詰まっていると、呼吸の波形がとがったものとなりますし、「間」があきすぎると「間抜け」となって、かえって呼吸を乱してしまいます。

呼吸は考えてするものではないので、「ああかな、こうかな」と考えながらだと、からだがうまく反応してくれません。むしろ、考えることをやめて、「息がたっぷり満ちた」という満足感や息が出てゆくときの「緩みの感覚」、そして息が出た後の「安堵感」を味わおうとすると自然と「間」が見えてきます。

呼吸の「間」や流れに集中することで、自然と一体となったような安堵感に気づくはずです。