なぜ日本性に気づいたのか

仏教やインドについて学ぼうとすると、一般の感覚にはない、一種独特の表現に出逢うことがあります。極楽浄土などは、如何にも荘厳な様で、蓮池が沢山あり、いろいろな色の花が咲いていて、光に充ち満ちて、鳥が鳴いていて、、、、香しくかおるさまなど、、、、。でもどのように詳細に説明されても、実感が湧かないことも多いですよね。

ヨーガの場合だと、アーサナや呼吸などの実践はものすごく実感するものが多いし、よく分かる。なのに、その思想、とくにハタ・ヨーガの独特な宇宙観はなかなか実感できない。論文「『ゴーラクシャ・シャタカ』試訳(1)」で翻訳したように、気道、脈管はまだしも、チャクラ説のその描写の仕方がまったく理解できず実感が湧かないこともあります。

実は、このような独特な描写の仕方こそもっともインド的なものであって、それらはみなインド的感性の賜物なのです。だから、私たち日本人が、見たことも、聞いたことも、体験したこともないことを簡単には分かるはずがないんです。その時代のその環境で、その文化に接して何世代も生活していたインドの人だけにしか理解できないこともあるんです。だから、私たちには、ある意味分からなくて当然なんです。こういう場合は、分からないまま保留にして、知っておくだけでいいんですよ。

かつて、仏教が中国に伝えられたときも、そもそも中国にないものはどうしようもなく、翻訳もできない。そして、もともとあった道教の考えを借りて翻訳されました。ヨーガも、元来インド産であるので、そもそも日本にはない概念があまりにも多く、それらに触れるとき、自然と、日本人の感覚に合うように修正して理解しているんです。
そして、インドで大昔から伝えられてきたことを、日本人として理解することを大前提にしてヨーガを学ぶ、その大切さに気がついたのです。

サッカー元日本代表の中田英寿さんは、試合で世界各地をまわり、様々な世界の文化に接してあらためて、自分は日本人なんだと強く実感したそうです。それがきっかけとなって、日本の伝統工芸や技を体験することで、日本を体感、実感しようとしているそうです。
その点で、雄弘ヨーガは、できるだけ純粋なインド産のヨーガを純日本的に解釈してできあがったものといえるのです。