愛でる感性

もう2月下旬、春のように暖かい陽射しがさしています。今日は、空の色も、空気の色も、陽の色もすべてが春らしく感じられる日でした。

こういう時期になると、花の開花が待ち遠しくなります。
桜の季節になると、町行く人は、みんな上を見て歩くようになります。
空気も桜色になるそうです。
「うわーっ!きれい!」という声があちこちで聞こえてきそうです。
きれいと感じるのは、そこにいろいろな力が働いているからなんですね。
香り、肌で感じること、気温、空の明るさ、、、。

最近はあまり使われなくなりましたが、日本には伝統的な色が数多くあります。私たちが緑と表現する中にも、若草色や萌黄、翡翠色など、かなり繊細だったのがよく分かります。現代人はこうした感性を失ってしまったのかも知れません。「かわいい」「きれい」よりも奥行きのある響きの分かる、もっと、人間の本質に響くような感性に触れる、深みのある見方をつけたいものです。

ヨーガをやっていても、しっかりと呼吸をし、気のエネルギーを頂くと、「あーっ、気持ちよかった」感じるものですが、これも、そこには、いろいろな働きが加わってのものなんですね。ちょっとした奥行きを再認識すると、もっと情感ゆたかに、深みをもって感じられるはずです。きっと、ヨーガも深まることでしょう。

きれいや爽快さを感じるだけでなく、美しさ、素晴らしさの背景も含めてすべてを「愛でる」。

自分の内に宿る20億人のご先祖様

「螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」⇒吉田兼好

何でも新しいものが良いという風潮ですが、古いものにこそ、本当の美しさをそなえている、という考え方もあります。長い間使っているうちに自ずと熟成されてくるものがあり、熟成があるからこそ、本当の美しさがあるのだ、と兼好はいっているのです。それは、古いものの内には、すべての時を積み重ねていると感じたからでしょう。

また、人はその全人格に個を越えた歴史を刻んでいます。

私たちひとりひとりの内に、どれだけのご先祖様が宿っているかを数えてみた方がいるんです。大仏教学者であり宗教家であり、実践家でもある玉城康四郎先生(故人)です。以前、日本ヨーガ光麗会の講演で来ていただいたことがあります。

玉城先生によると、私ひとりの内に両親がいるので、まずふたりの先祖は確定しています。そして、その両親、そしてまたその両親と辿っていくんです。10代(約300年)遡れば、2046人、20代(約600年)で2,097,110人、30代(約900年)で2,147,483,646人となります。なんと20億人!

そして、実際はそれ以上の膨大な先祖の記憶が、私たちひとりひとりの記憶に宿っているんです。
興味深いと思いませんか。

でも、今の自分の我が強すぎるとそれが蓋になって、ご先祖様も見えなくなるし、ご先祖様の力も頂けないんですよね。ヨーガをとおして自分に宿る先祖様を供養し、身体の隅々、心の隅々を意識に上げて思い出す。
ご先祖様を思い出し、今、自分のあることに感謝したいですね。

植木鉢と兵糧攻めの根っこ

かつて、庭の鉢植えを手入れしていたときのこと。大きな植木鉢に移し替えようと抜き取ると、所狭しとグチャグチャとなった根がひしめき合っているのが視界に入ったんです。「こんな狭いところに入れられて、、、、」「大地と繋がりたいんだな」そのように思えたのです。その証に下の穴からは、大地を目指して根がたくさんあふれ出てきていました。

その瞬間、「植木鉢は、私たちの意識そのものではないか!」と私の心が叫んだのです。兵糧攻めのように小さな枠であがいている、、、。閉塞した社会経済環境の中を生きている我々は、植木鉢のなかで兵糧攻めにあっている根と重なって見えたんです。身体のクセもいわば同じで、小さな鎧をかぶったように肩をすくめている。

でも、根に力があれば、植木鉢も割ってしまうし、コンクリートの壁も倒してしまうような、大きな力があるんですね。ただから、こころとからだと意識の枠を打ち破るためには、根に力を与えるのが最も効果的なんです。

ヨーガは、根っこにそのための力を授けてくれます。生命力、人間力、人格力、、、、私たちが枠を越えるために必要な様々な力を授けてくれる、ありがたく、頼りがいのあるものなのです。

遠望視

私が小学生の頃、視力が低下する子どもが多いということで、休み時間に遠望視を学校ぐるみで取り組んでました。校庭から吉田山(京都市内、大文字山の向にある)をぼーっと見る練習です。当時は何をしているのか、まったく意味がわかりませんでしたが、今思うと遠望視は視力よりもこころの鍛錬に効果的だったんだと思えるようになりました。何もしないこの時間は、こころの栄養補給の時間なのです。

私たちはどうしても遠い将来のことよりも、近い将来の、あるいは、今日明日の雑事にこころが向きやすい傾向があるんです。だから、目の前に大きな課題があるとそればっかり見てしまうんですね。近くを見るということは、遠くが見えないということ。手前のことばかり気にしていているから、視野が狭くなるんです。

とても不思議ですが、実際に眼で見える視野が狭くなると「こころの視野」も狭くなるんです。狭いところで右往左往するようにもがき苦しむようになりかねません。この時こそ、視野と視線をかえることで乗り越えることができます。

こういうときに遠望視が最適なんです。かっこよく表現すると瞑想ともいえるかも知れませんが、遠望視でいいんです。遠くを見るんです。とにかく遠くを。何かに焦点を合わせるとその他のものが見えなくなるので、何を見るでもなく「あ~っちの方」を眺めるように空を見てればいいんです。千里先の地平線やその向こうにあるオアシスを眺めるようにするんです。山がなければ、空でも星でもなんでも大丈夫。

近くを見すぎると、視野は20度未満。集中力があるといえばそうですが、これではあまりにも周りが見えない。こころを苦しめるテーマに集中する必要ありませんからね。遠望視をすると、視野は180度以上!見える世界が桁違いに広くなります。眉間のしわも緩んで、眼の緊張もおさまり、とても楽になります。5分~10分経つと、こころもひろ~くなって、自然と同化したのが分かるはずです。

なぜ日本性に気づいたのか

仏教やインドについて学ぼうとすると、一般の感覚にはない、一種独特の表現に出逢うことがあります。極楽浄土などは、如何にも荘厳な様で、蓮池が沢山あり、いろいろな色の花が咲いていて、光に充ち満ちて、鳥が鳴いていて、、、、香しくかおるさまなど、、、、。でもどのように詳細に説明されても、実感が湧かないことも多いですよね。

ヨーガの場合だと、アーサナや呼吸などの実践はものすごく実感するものが多いし、よく分かる。なのに、その思想、とくにハタ・ヨーガの独特な宇宙観はなかなか実感できない。論文「『ゴーラクシャ・シャタカ』試訳(1)」で翻訳したように、気道、脈管はまだしも、チャクラ説のその描写の仕方がまったく理解できず実感が湧かないこともあります。

実は、このような独特な描写の仕方こそもっともインド的なものであって、それらはみなインド的感性の賜物なのです。だから、私たち日本人が、見たことも、聞いたことも、体験したこともないことを簡単には分かるはずがないんです。その時代のその環境で、その文化に接して何世代も生活していたインドの人だけにしか理解できないこともあるんです。だから、私たちには、ある意味分からなくて当然なんです。こういう場合は、分からないまま保留にして、知っておくだけでいいんですよ。

かつて、仏教が中国に伝えられたときも、そもそも中国にないものはどうしようもなく、翻訳もできない。そして、もともとあった道教の考えを借りて翻訳されました。ヨーガも、元来インド産であるので、そもそも日本にはない概念があまりにも多く、それらに触れるとき、自然と、日本人の感覚に合うように修正して理解しているんです。
そして、インドで大昔から伝えられてきたことを、日本人として理解することを大前提にしてヨーガを学ぶ、その大切さに気がついたのです。

サッカー元日本代表の中田英寿さんは、試合で世界各地をまわり、様々な世界の文化に接してあらためて、自分は日本人なんだと強く実感したそうです。それがきっかけとなって、日本の伝統工芸や技を体験することで、日本を体感、実感しようとしているそうです。
その点で、雄弘ヨーガは、できるだけ純粋なインド産のヨーガを純日本的に解釈してできあがったものといえるのです。

呼吸の「間」を大切にしよう

呼吸法は、こころにもからだにもたいへん良い効果をもたらすので、実践されている方が多いと思います。でも、ちょっとしたポイントを意識するだけで、さらに質も高く効果的になります。

それは、「日本的、純和風のヨーガ?」でも書いた、「間」です。呼吸は大きなうねりのように、なめらかな波形を描いているのが理想的なのですが、そのためには、呼吸と呼吸との間に一定の「間」を意識することがとても大切なのです。

息を入れてから出し始めるまでの「間」、息を出し終わってから息を入れ始めるまでの「間」の長短が、呼吸の質を大きく変えてしまうのです。「間に合う」「間合い」「間違い」「間がずれる」などの表現のように、禅や伝統芸能の影響を受けた私たち日本人は、とても「間」を大切にしてきました。それが呼吸法にも当てはまるのです。

あるようで、掴みにくく、でも確実に存在する「間」。その「間」が詰まっていると、呼吸の波形がとがったものとなりますし、「間」があきすぎると「間抜け」となって、かえって呼吸を乱してしまいます。

呼吸は考えてするものではないので、「ああかな、こうかな」と考えながらだと、からだがうまく反応してくれません。むしろ、考えることをやめて、「息がたっぷり満ちた」という満足感や息が出てゆくときの「緩みの感覚」、そして息が出た後の「安堵感」を味わおうとすると自然と「間」が見えてきます。

呼吸の「間」や流れに集中することで、自然と一体となったような安堵感に気づくはずです。

日本的、純和風のヨーガ?

ヨーガはインドの気候と風土が育んだものなので、当然ながらインド的なものです。でも、雄弘ヨーガはものすごく日本的なんです。

日本人は類稀な美意識を持ちあわせていて、その多くのものは、禅から派生したものといいます。飾りのない簡素さ、単純さを好む傾向も日本人独特なものだそうで、これらのすべてが、禅の理想と符合した日本独自の美的嗜好の表現なのだといいます。

日本人独特のものといえば、「間」という捉え方。寺の鐘の鳴る音と次の音の「間」は、決して割り切れるようなリズムではないのですが、日本人はそうした「間」に関する独特な感受性を持っているそうです。そして、この「間」がこころに響く精神性、内面性を有しているというのです。

呼吸に合わせたアーサナをやっていてると、この「間」に気づかされるチャンスに多々遭遇します。呼吸の出入りについても、からだに感じる緊張と弛緩の波にも、「間」が豊富に含まれているんです。なかなか意識化することは難しいものですが、誰しも、ものすごくスムーズに心地良くヨーガができたと感じることがあると思うんですが、そのとき、まさに「間」を掴んだときなのです。

仕事にしても、会話にしても、何をやってもうまくいかないときは、「間」をはずした「間」の抜けたとき、スラスラとうまくいったときは、「間」に合ったときなのでしょう。

この「間」を掴むように「佛の舞」のように実践することで徐々に我の枠を取り払っていき、最後に自分の核となるもののみが残るとき、その時に「間」を体現できるのだと思います。

雄弘ヨーガは、「間」をたいへん大切にして実践する純日本的で純和風なものなのです。

初めてのブログ~ヨーガの気づき~

人生はじめて、ブログ挑戦することになりました。
日々の生活の中から、ヨーガ的な示唆をうけるもの、
日本的感性について綴りたいと思います。

よく、「いつもヨーガのことを考えているんですか?」という質問を受けることがありますが、
実は、そんなに「ヨーガ、ヨーガ」してるわけではないんです。
特に、難しく考えているわけではないんですが、
自分を無にして作務をしていると、新たな発見があるんです。
そして、目に入るひとつひとつに「何か」を読み取ろうとしてしまう癖があるみたいです。

裏庭の空き地、結構広いんですが、毎年夏時期は草抜きが大変なんです。
最近は時間もなく抜ききれないので、草刈りになりました。
それでも、最低ひと月に1回、最大限譲歩しても2ヶ月に1回は何とかしないと、ご近所迷惑。
それで頑張っているんですが、ある時地中深い雑草の根を抜いていて、
「この草は宿根だから、根こそぎ抜ききらないとまた伸びてくる、、、」
「もしかして、地中に無限にこうした種、つまり原因があるから雑草はなくならないんだ」
などと思い始め、とうとう、
「これが、「業」というものか!と、納得したりしました。」
抜いても拭いても伸びてくる雑草と鎮めても鎮めてもうごめく煩悩。これらはそもそもひとつのものだったんです。
そうすると、難しそうなインド思想もすべて、日常に見えてきたりしたのです。
大地と接していると、いろいろと気づかされるんですね。

こういうふうに、気付きをヨーガ的に解釈しているだけなんです。