禅的野球の精神

野球、私はまったく詳しくありませんが、先日ニュース報道を見ていて、なるほど、日本と仕方が違うのだなと、あらためて思いました。これは野球に限ったことではないでしょう。

「禅的野球の精神」というものがあるそうです。
投手と捕手がサインを送り合ったりしながら、打者と駆け引きをして、その「間」をずらす。双方が相手の「間」をずらすことで、心の隙間をねらって勝負をするということだそうです。

「剣禅一如」という言葉もあります。これは、伝統的な武道で説かれる境地を修得するための捉え方で、やはり「間」の駆け引きと禅的精神は別物ではないということでしょう。

雄弘ヨーガでは、その「間」を合わすようにおこないます。これはまさに禅的です。
能の元祖、鎌倉時代の世阿弥は、『花鏡』という著書の中で、
「見所の批判に云う、「せぬ所が面白き」など云う事あり。、、、。舞を舞ひやむひま、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉、物まね、あらゆる品々のひまひまに、心を捨てずして、用心を持つ内心也。、、、。「せぬ隙の前後をつなぐべし」。

要するに、ある動きと他の動きの間のすき間、そこが大事なんですね。
「間」があるから余情が生まれる。「間」は禅で重視する沈黙、沈静にもあたり、それは精神の統一をめざす呼吸と呼吸の間の微妙な調整をはかるためのものなんです。

アメリカに渡った投手が、そうした「間」をとった投球をしていると、アメリカでは、どんどん続けて投げるように言われるそうです。
日本人投手は暗に禅的で、「間」を取った野球をしていたんですね。