時折、子供の頃の自分の姿を思い出すことがあります。それは多分、虚弱だった幼稚園児の頃ではないかと思います。そののちそれが原因で、父(先代雄弘師)の勧めでヨーガを始めるようになりました。
生来身体の弱かった私は、土いじりばかりしていたような記憶があります。そして、庭の地面にスコップで穴を掘っていました。来る日も来る日も穴を掘っていた記憶があります。
その当時の意図はいまだにはっきりとしませんが、それに関して最近気がついたことがあります。
私には後に考古学的興味が育ってくるのですが、それもこの土いじりの感覚が関係しているのではないか、と思います。今でも、考古学的発掘には惹かれるものがあります。
実はヨーガにもこれと まったく同じセンスが働いているように思います。ヨーガ、インド的瞑想の原型には、「私とは何か?」「本当の自分はどれなのか?」そういう目には見えない深層を明確にしたい、本当の自分と向き合いたいという内的探求の衝動があったに違いありません。
先日、NHKの「謎の都・飛鳥京発掘 ~よみがえる“水の都”~」という番組を見ていて、考古学者の方々の地道な発掘作業を見ていて、そのように思いました。
私の故郷 京都の町は、すこし掘れば過去の遺構にすぐにぶつかります。日々、過去の積み上げの上に生活しているのです。それは私たち自身にも同じことがいえます。遺伝的に積み重なったものもあれば、心の底に沈殿した個人的な業といえるものもあるでしょう。
子供の頃から穴を掘るのが好きだったのは、そうした底を見てみたいという思いがあり、さらに心の奥底まで見ていこうとするインド的瞑想のセンスが働いていたのかもしれません。
水底深く茎を降ろす蓮のように、核心を掴もうとより下層へと向かう精神的方向性がインド的瞑想の原型であり、それは私たち誰もが持っている衝動なのにちがいありません。




