前回につづいて『瑜伽師地論』(以下『瑜伽論』)のヨーガを見てみましょう。
医療にも活用されている仏教瞑想に起源を持つマインドフルネス。マインドフルネスはもとはブッダが行った呼吸観察瞑想(アーナーバーナサティānāpānasati)に由来するものです。マインドフルネスについては、以前、ブログで書いたので読んでみてください。
→ヨーガとマインドフルネスの関係について
ānāpānasatiはパーリ語で、『瑜伽論』はサンスクリット文献なのでānāpānasmṛtiというサンスクリット語で表されます。āna(入息)とapāna(出息)をsmṛti(注意を向ける、念じる)という実践で呼吸観察瞑想といえます。
『瑜伽論』では次のように書かれています。サンスクリット、玄奘による漢訳部分とともに訳を記します。
tatrānāpānasmṛtiḥ katamā /
āśvāsapraśvāsālambanā smṛtiriyamucyate ānāpānasmṛtiḥ /
云何阿那波那念所縁。謂縁入息出息念。是名阿那波那念。
「ではānāpānasmṛtiとは何か。āśvāsa(入息)とpraśvāsa(出息) を注意の対象として念じることをānāpānasmṛtiという。」
このことから分かるように、仏教ではブッダの頃から、呼吸は観察する対象、瞑想の対象として使われました。マインドフルネスが調整しないありのままの呼吸の様子を観察する理由がここにあります。そこには調える、制御、コントロールするということは含まれません。しかし、呼吸を繊細に見つめていけば、必ず調ってくるものなのです。能動的な呼吸観察による調気法とでもいえるかもしれません。
それに対してヨーガでは積極的に調えることを第一義に説いています。調気法つまりprāṇāyāmaとは「気」のエネルギーを制御するという意味なので、調えるからこそヨーガ的仕方だといえます。しかし、繊細に調えるということには、そこには必然的に観察することが含まれています。観察しながらでないと調えられないからです。その点で、能動的調気による呼吸観察といえるでしょう。
だから、仏教では調気法を説かないからといって、ānāpānasatiで調えず観察する、ヨーガではprāṇāyāmaで調えるが観察しない、という単純なものではありません。
しかし、観察を主とする仏教のānāpānasatiだからこそ至った、秀逸なことが説かれるのです。それが「中間入息」(antara-āśvāsa)「中間出息」(antara-praśvāsa)という考え方です。これは真剣に呼吸を観察するからこそ導き出されたものといえます。
次回は、「中間入息」(antara-āśvāsa)「中間出息」(antara-praśvāsa)について考えてみましょう。