ヨーガとマインドフルネスの関係について

蹴上・無鄰菴20160821 (28-)最近、マインドフルネスという言葉がよく聞かれるようになりました。

以前のブログで、「雄弘ヨーガはマインドフルネス」と表現しました。このあたりをもう少し整理してみましょう。

マインドフルネスの元になった瞑想は、「アーナ・アパーナ・サティ」という呼吸観察法とでもいうものです。観察法であって呼吸をコントロールする呼吸法ではありません。それは仏教の観想法で、ブッダの時代から続く、歴史の長い瞑想の仕方のひとつです。いわば拡張型の観察瞑想とでもいうべきものです。対してヨーガの瞑想法は一点に集中していくもので、いわば集約型の集中瞑想です。

『ヨーガ・スートラ』の瞑想は心一境性という、ひとつの対象に集中していく形のもので、古来よりの瞑想の原型です。この二系統、まったく別物のようにも見えますが、深い関係があります。

ですから、観察瞑想は『ヨーガ・スートラ』の思想には直接的には含まれません。しかし、観察瞑想に相当するものは含まれています。また、ハタ・ヨーガになると事情は変化し、そして、我々が実践する現代ハタ・ヨーガではさらに変化が見られます。

『ヨーガ・スートラ』の瞑想には、念ずる系の瞑想と感じる系の瞑想があります。念ずる系の瞑想とは、「自在神祈念によって三昧が成功する」と説かれるように念による集中であるのに対して、感じる系の瞑想は、ヨーガ行法による身体感覚などによる内部刺激がその対象となります。
蹴上・無鄰菴20160821 (43-)
『ヨーガ・スートラ』にある座や呼吸の身体感覚、呼吸の流れを観ずるプロセスなどがそれで、そこには、一点集中から全体的な観察瞑想まで含まれることが必然となります。我々がアーサナや呼吸法をする際の身体感覚や呼吸への意識の向け方と共通項が見られます。

従って、身体技法的実践がほとんど発展していなかった『ヨーガ・スートラ』の段階では一点集中が主として説かれましたが、積極的な身体技法か開発されるハタ・ヨーガになると、一点集中から全体的な観察瞑想へと瞑想の対象が拡張していきます。

私たちの実践は、その後の時代的変遷によって、あらゆる形の瞑想法があるなかで実践することとなり、さらに多様性を持っています。今や瞑想も多様化の時代を迎えています。

仏教でもヨーガでも、その長い歴史のなかで多様な瞑想体系があり、今に至っています。特に、マインドフルネスといわれる時代になって、そのなかにも多様なものが含まれています。宗教性を除いて医療に活用されるもの、純粋な伝統的な形で実践されるもの、グーグルなどの企業で活用されるパターンのもなど多様で、一様ではありません。
蹴上・無鄰菴20160821 (4-)
そのなかで、あえて「ヨーガはマインドフルネス」と私がいう場合のマインドフルネスは、ヨーガ瞑想の歴史の中での多様性を総括し、且つ広範囲なマインドフルネスの多様性の中での違いを明確にすることからではなく、それらとの共通性を認識し、人類の幸となることを目指す瞑想という意味です。
宗教性を除いて医療に活用されるもの、グーグルなどの企業で活用されるパターンのもという意味ではありません。

日本庭園や日本家屋には禅文化を通じて伝統的にマインドフルネスが染みこんでいます。
日本に於いては、マインドフルネスは日本文化そのものといえます。雄弘ヨーガは日本的
ヨーガなので、自ずと伝統的マインドフルネスが入っているといえます。

雄弘ヨーガは多様性に展開できる柔軟性を持つ、古典に由来する現代的マインドフルネスなヨーガなのです。

※『ヨーガ・スートラ』の瞑想と身体感覚についてはこちらの論文を参照下さい。
「ヨーガ派の瞑想~一境集中への架け橋~」

2016/08/26一部修正